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■ 戦後60年企画その二…君は知るや指宿からの特攻 ■
特攻隊が出撃したのは知覧だけではない。鹿児島県本土だけでも10か所ほどの陸海軍の航空基地があり、そのそれぞれから特攻機が飛び立った。
私の住む指宿にも1943年に海軍航空基地が建設された。その前年、ミッドウェイ海戦で日本軍は大敗し、攻撃から防御へと態勢が変わってからだった。知覧の基地もほぼこの時期に建設されている。
知覧特攻平和会館と違って、指宿海軍航空基地跡は、今では国民休暇村となった一画に、慰霊碑公園としてひっそりとたたずんでいる。
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かなり基地としての規模は思っていたより大きかった。基地の敷地だったところには現在、市営野球場、陸上競技場、総合体育館、市民会館、国民休暇村などが散在している。
入り口を入ると、小高い小さな丘が見えてくる。この丘はかつての退避壕だったのだ。階段の左にあるのは退避壕の入り口のひとつ。現在この上に、指宿海軍航空基地哀惜の碑と観音像が安置されている。
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指宿海軍航空基地哀惜の碑。
毎年5月27日(海軍記念日)に慰霊祭が行われる。私は行ったことはないが。
読み取っていただけるだろうか。
ここから飛び立って二度と戻らぬ特攻に使われたのは、水上機(下駄履きと呼ばれた)だったのである。
特攻で戦死した犠牲者のほか、この基地への米軍の爆撃でなくなった百余人の慰霊の碑でもある。
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指宿航空基地戦没者および殉職者の碑。
枕崎沖で発見された特攻機のものと思われるプロペラ。そして飛行艇などの写真の数々が展示されている。
当時のこの基地に配備あるいは飛来した航空機の数々。下駄履きと呼ばれた水上機や飛行艇。一般の戦闘機に比べスピードに劣っていたにもかかわらず、これらの飛行機まで特攻に使われたのは悲劇としかいいようがない。
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慰霊碑公園の哀惜の碑から、錦江湾をのぞむ。かつての悲劇からは想像もできない見事な青い海と空が広がっていた。
指宿からの特攻隊出撃。知覧基地からの数に比べればはるかに少ないが、これは紛れもない事実である。そもそも特攻とは何なのか。我々はそれをしっかりと認識する必要がある。
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